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あとう和之のホームページ

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●「人権擁護」法案をつぶそう

「人権擁護」法案は市民の言動まで規制する危険
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 ある方から、「人権擁護法案について反対してほしい」というメールをいただきました。
 これは私もかねてから危惧していた法案で、その趣旨に賛同するものです。

 なぜ「人権擁護」に反対なのか?
 いえ、真の人権擁護は必要だと思います。「人権擁護」法案は、人権侵害法案の危険がある、と思うのです。
 私は次のように考えます。

 政府が今国会に再提出を予定している「人権擁護」法案について、世論の批判が高まり、自民党内でも異論、反対の声が噴出しています。

 私は、この法案が、いま国民が求めている迅速な人権救済には役立たず、国民の言論、表現の自由を脅かす根本的な問題、欠陥をもっていると考えます。

恣意的な運用の恐れ

 法案では、法務省の外局につくられる人権委員会が、不当な差別や虐待など人権侵害の救済にあたるといっています。

 私は、官庁や企業による不当な差別的取り扱いを規制するのは当然だとは思います。ところが、この法案は、市民の間の言論・表現活動まで規制の対象としているのです。

 何を「差別的」とするのかは、微妙な問題だと思いませんか?
 実際、裁判でも判断が分かれています。

 ところが「差別」の定義はあいまいで、人種などを理由とした「侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」というものです。何を「差別的」と判断するかは委員会まかせなんですね。いくらでも恣意的な解釈と適用が可能だと、私は思います。

 なかでも相手を「畏怖させ、困惑させ」「著しく不快にさせるもの」は「差別的言動」、助長、誘発するものは「差別助長行為」として、予防をふくめ停止の勧告や差し止め請求訴訟ができるしくみなんです。

 市民の間の言動まで「差別的言動」として人権委員会が介入し、規制することになれば、国民の言論・表現の自由、内心の自由が侵害される恐れがある──これが私の考えですね。

 「差別」を口実とした市民生活への介入といえば、かつて「解同」(部落解放同盟)が一方的に「差別的表現」と断定し集団的につるし上げる「確認・糾弾闘争」が問題になりました。「糾弾」は学校教育や地方自治体、出版・報道機関、宗教者などにもおよび、校長の自殺など痛ましい事件が起きました。

 「糾弾闘争」は現在でも後を絶っておらず、今回の法案は「解同」の運動に悪用されかねません。「人権擁護」どころか逆に、人権侵害法案となることが心配されるのです。

 私も大学時代、似たような経験をうけました。
 「糾弾」という名前で何時間もつるしあげを受ける──こんなことがまかり通る危険があります。

 報道機関による「過剰取材」の部分を凍結しても、「差別」を口実にした出版・報道の事前の差し止めなども可能です。メディアへの介入・規制の危険に変わりありません。

 国民の「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という憲法第21条に抵触するような法案では、到底認められません。

 また、ほんとうの人権擁護のため、もっとも必要な公権力や大企業による人権侵害の救済にはまったく無力です。

 人権委員会が法務省の外局では、同省の管轄下にある刑務所などの人権侵害を救済できないことは明らかです。警察や防衛庁による思想・信条の自由やプライバシーの侵害がしばしば発生していますが、勧告・公表など特別救済の対象外です。

 大企業で横行する人権侵害も、厚生労働省など行政にまかせて、救済の対象にしていません。

 メディア規制の条項を凍結しても、「いつでも解除できる」とメディアを脅すことになります。

 メディア規制条項を許さず、報道被害の問題は、報道機関の自主的な取り組みを基本とすべきです。

根本からやり直しを

 法案には、日本ペンクラブ言論表現委員会・人権委員会をはじめメディアにかかわる6団体も「安易に表現の自由への規制を法制化しようとするもの」として反対しています。

 こんな法案は国会に提出すべきではありません。国民的合意ができる人権救済のしくみをつくるため、議論を根本からやり直すことです。


 私は都政に挑戦する者ですが、国会に共産党議員もおり、当然そこと連携していきます。また、都政からもアプローチは可能です。たとえば地方自治法を使えば、都議会で意見書をあげることができます。
 私は、ほんとうの意味での人権を守るためにがんばりたいと思います。


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